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君とアニメと人生と

アニメ・人生・仕事の三本柱でお送りします

行動するために必要なのは理由ではなく「大義名分」である

人生 人生-考え方

私は以前「論理的過ぎる思考は時に危険を招く」という記事の中で、人が何か行動を起こすときには仰々しい動機や大層な理由など必要ないということを述べました。

それでは、人が行動を起こすために本当に必要なものとは何なのか?この点について考えていきたいと思います。

行動するために必要なのは「大義名分」である

私は、人が行動を起こすために本当に必要なのは「大義名分」ではないかと考えています。大義名分とは、

儒教に由来する考え方で、本来は臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指した。今日では転じて、「行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠」を指す事が多い。

出典:大義名分 - Wikipedia

という意味の言葉で、要するに、自分が行うこと・行っていることが正しいことであると胸を張って言えるかどうかに関わってきます。

ただし、そのこと自体が本当に“正しいこと”である必要はありません。重要なのは、“胸を張って正しいと言えるかどうか”。

この世の中、本当に正しいかなんてわからないことばかりです。そんな中で人が何かを決断し実際の行動に移していくために必要なのは、“自分がそれを正しいと思えるかどうか”なのです。

「大義名分」という日本人の歴史

さて、大義名分なき行動には、どんな結果が待っているのでしょうか?この問いに対するヒントは、日本人の歩んできた歴史にありそうです。

よく大河ドラマなどで武将たちが、「大義名分は我らにあり」という台詞を口にするのを見かけますよね?逆に、「我らには大義名分がなく、兵の士気が下がっております」なんていう、冷静な参謀役の台詞も聞いたことがあります。そして大抵の場合、大義名分なき軍が大義名分を持つ軍に勝てることはありません。また、例え自分に大義名分があろうと、相手にも相手なりの大義名分があります。

つまり戦に勝つためには、最低でも自らの「大義名分」だけは持っている必要があったのです。

「大義名分」は自ら掲げられなくてはならない

「大義名分」とは、自分の行動を正しいと主張するための根拠や道理だと説明してきました。それでは、「大義名分」というのは、ただ単に持ってさえいれば良いものなのでしょうか?

例えば、「なぜあなたはそれをやっているのですか?」と誰かに聞かれて、そこで初めて「~だから」という根拠・道理を示したとします。これは「大義名分」と呼べるのでしょうか?恐らくその答えは否。自分が掲げる前に誰かに問われたそれは、その瞬間ただの「理由」になってしまいます。「論理的過ぎる思考は時に危険を招く」でも述べたように、理由というのは所詮「後付け」に過ぎません。極端に言えば、それは言い訳のようなものです。

要するに「大義名分」というものは、誰に聞かれるでもなく自ら進んで掲げられなくてはなりません。かの戦国武将たちが「大義名分は我らにあり~!」と叫びながら敵陣へと切り込むように、誰に聞かれるでもなく胸を張って掲げられることこそが「大義名分」なのです。

まとめ

大義名分のない軍の兵士も、命令されれば一応は戦います。しかし、結局は大義名分を持つ軍に淘汰されていく。つまり、大義名分のない行動にはなかなか継続性が伴いません。

何をやっても上手くいかなかったり途中でやめてしまう人。なかなか行動に移せず怠惰な生活を送っている人。そんな方は、自分の行動に「大義名分」という旗印を掲げてみると良いかもしれません。

皆さんが今行っていることには、どんな大義名分がありますか?そしてそれを、自ら進んで掲げられていますか?もしそうでないとしたら、それはただの「理由」になっているのかもしれませんよ。

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