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君とアニメと人生と

アニメ・人生・仕事の三本柱でお送りします

人生とゲームの根本的な違いとは?

人生 人生-考え方

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世間ではよく「人生はゲームのようなものだ」という言葉を耳にする。確かにこの例えは、「主人公」という人間の成長を描いていくという点において、至極もっともなものではある。ところで、近年ではスマホゲームの台頭により、子どもから大人、あるいは高齢者まで本当に多くの方がゲームを楽しむようになった。そこで、敢えてここで考えてみたいのは、「ゲームがゲームたる」には何が必要であり、その「ゲーム」と「人生」とのもっとも大きな違いは何かという点である。私が考えるに、それは「ゴール」の明確さにある。

ゲームとは「非現実の体験」である

世の中には本当に多くのゲームが存在する。パズルゲームやアクション、RPGにシューティング…挙げ始めれば本当にキリがないほどだ。さて、これら数多存在するゲームたちの性質を、たっち一言で表すとしたらあなたはどのように定義するだろうか?

私は、「ゲーム」とは「非現実の体験」であると考えている。

この点を説明するために、まずは「ウイイレ」などを中心とするスポーツゲームを例に挙げてみよう。これらのゲームは、一見すると非現実の体験とは言えないようにも思えるだろう。

ただし、私がここで用いている「非現実」とは、なにも魔法が使えるファンタジー世界や異次元を指しているわけではない。ここでの「非現実」とは、ある人にとって「体験できる可能性が極めて低いもの」を指す。

スポーツゲームに話を戻すと、ウイイレの世界では手元にある□ボタンを推すだけで誰でも簡単に華麗なシュートが打ててしまう。だが、現実であれだけの華麗なシュートを放つには、どれほどの時間と努力が必要になるのだろうか?

つまり「ゲーム」とは、ある人が到底体験することのできない世界を疑似的に体験できること、一言で言えば「非現実の体験」であると言える。

人生とは「不確実で非合理なもの」である

ここまで「非現実」と「ゲーム」の関連性を説明してきたが、次は現実としての「人生」とはどのようなものかという点について説明していきたい。まずは先日私が感銘を受けたしっきーさんのブログ記事を引用させていただく。

skky17.hatenablog.com

ゲームの持つ特徴を指摘する形で定義してみるなら、「ゲームとは冗長性を縮減するもの」ということになる。

ここでしっきーさんが述べている「冗長性」とは、まさに私が思う所の「現実」と同義であると思われる。現実とは、不確実で非合理なものであり、人生において確かな答えなどなく、合理的な思考が及ばないことも多い。

つまり、「ゲーム」とはまさに「現実」が持つこういった要素を排除したものであって、「これをすればこうなる」「ここをこうすればクリアできる」といった確実性と合理性で成り立っているわけである。

ゲームには「明確なゴール」が必要である

それでは最後に、この記事で私が一番述べたかったことである「ゲーム」が排除するべき「現実の要素」として、もっとも重要なものを説明したい。それが「ゴールの不明確さ」である。

「現実」には明確な「ゴール」というものが存在しない。「こうしたらあなたの人生はハッピーエンドです」とか「おめでとうございます!あなたは人生をクリアしました(エンドロールが流れる)」といった指針など現実にはあり得ない。また、命が絶えるときが「ゴール」だと考える人もいることだろう。しかしこれは、「ゴール」というより「ゲームオーバー」に近い。やはり「ゴール」には、満足感がなければならず、人の死が直接満足感に繋がることなどあり得ないからだ。

要するに、ゲームは現実が持っているこの「ゴールの不明確さ」を排除しなくてはならない。そうでなくては、わざわざゲームをする価値は薄れていく。「明確なゴール」を設定することこそが、ゲームがゲームであるためにもっとも必要な要素なのではないだろうか?

まとめ

結局この記事で何が言いたかったのかというと、「終わりのないゲームは、本来のゲームとしての役割からは離れている」ということ。必ずしもそれが悪いことではないが、実際問題として最近のスマホゲームの多くが本来のゲーム像からは離れてきてしまっている。ただしこれは、「人がなんのためにゲームをするのか?」という問題に大きく左右される論点であるので、ここでの言及は以上にしたい。

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